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上州をゆくTOPへ>上州をゆくバックナンバー21~40
連載「上州をゆく」37 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
染色学校講堂(桐生市)
▲染色学校講堂(桐生市)
周辺MAP
赤レンガ倉庫(横浜市)
▲赤レンガ倉庫(横浜市)
周辺MAP

 横浜が世界に扉を開いたのは1859年。以後、貿易港として発展した。戦前は日本の輸出品の半分が絹製品、その3分の1が群馬県産だった。両毛鉄道など鉄道網が整備されると、生糸や絹織物の東京方面への輸送に大いに貢献した。横浜港から輸出される絹製品は、当時の国家予算の3分の1に迫るほどだったという。

 横浜の赤レンガ倉庫は、当時の様子を今に伝える貴重な建物である。群馬県から運ばれた絹製品はここに貯蔵された。現在は倉庫としての役割は終えたが、中に洒落たショップやカフェが多数入り、観光横浜のシンボルとなっている。様々なイベントも開かれる。この日はアニメか何かのコスプレ衣装に身を包んだ若者が大勢いた。女装した男性が異様に見える。中年世代の私には、何が楽しいのかさっぱり分からない。

 日本を支える産業のさらなる発展を、という桐生市民の願いが叶い、織都・桐生に高等染色学校(現群馬大学工学部)が誕生したのは1916年だった。多くの市民も寄付をし、大きな期待を背負った学校だった。創立時の正門や講堂などが大学に保存されている。講堂内は長椅子が並び、高い天井にシャンデリアが下がる。まるでキリスト教の教会のようだ。厳粛な雰囲気の中で勉強していたであろう、当時の学生の姿が目に浮かぶ。

 講堂入り口の脇にある銘板が気になった。よく見ると戦没学生の芳名録だった。太平洋戦争で戦死した学生の名前が並ぶ。学徒出陣により、学業半ばで戦場に散った先人達である。戦争の悲劇がここにもあった。青春を謳歌することもなく、志を断たれた秀才達の無念はいかばかりか。

学校からは繊維業界にとどまらず、日本の発展に尽力した偉人が輩出した。繊維産業は衰退したが、培われた技術力を基礎に、現在は産業界と連携し、新産業創出の原動力となっている。ここの研究から世界に羽ばたいた企業もある。画期的な研究に世界の注目が集まる。
連載「上州をゆく」37 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
二子山古墳(前橋市)
▲二子山古墳(前橋市)
周辺MAP
愛宕山古墳石室(前橋市)
▲愛宕山古墳石室(前橋市)

県内には大小1万ほどの古墳があり、古墳王国と言われる。貴重な出土品も多く、太田で発掘された武人埴輪は国宝となっている。毛の国(群馬、栃木の古代名)に支配体制が形成されたのは4世紀頃と推定される。5世紀には東国随一の勢力を誇る大国となった。この頃から大規模な古墳が県内各地に造営された。県一帯は古代東日本の政治、文化において重要な地位を占めていた。 総社古墳群は5世紀から7世紀にかけて造られた。JR群馬総社駅で降り、南東に5分ほどで民家に囲まれた総社二子山古墳が見える。6世紀の築造とされ、全長90㍍もある前方後円墳で、古墳群の中で最大を誇る。頂上にはこの墓の主、毛の国を支配した毛野氏の始祖とされる豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の碑がある。しかし伝説上の人物ゆえ、ここが本当にその墓かどうかは分からない。

さらに南東の愛宕山古墳は、一辺が約56㍍の方墳で7世紀のものという。石室は見学出来る。石棺の埋葬者は誰かと古代へのロマンを掻き立てられる。記録の無い時代ゆえ想像するしかないが、早く全貌が明らかになればと思う。

総社小近くの宝塔山、蛇穴山古墳は古墳時代の終末期の方墳とされる。この頃になると大型の古墳は総社地域に限られてくる。大和王権の勢力がこの地域にも及んだ証拠で、総社地区の豪族が王権と結びつき、勢力を誇ったことを意味するという。これらは畿内の古墳や寺院と共通する先端技術で造られている。

毛の国が大きな勢力を誇った理由として、渡来人の貢献が考えられる。高崎の剣崎長瀞西遺跡からは、大陸の文物が多数発見された。轡などの馬具は特筆ものだという。古代日本人は馬を知らなかったので軍事、輸送・交易面で圧倒的な優位を誇ったに違いない。カマドも伝来し、食生活は飛躍的に向上した。上古の群馬人は極めて開明的だったのだ。その気風はぜひとも受け継いでいきたいものだ。

 

 
連載「上州をゆく」37 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
大戸関所(東吾妻町)
▲大戸関所(東吾妻町)
周辺MAP
忠治地蔵(東吾妻町)
▲忠治地蔵(東吾妻町)
東吾妻町観光ガイドHP

 1850年12月21日(旧暦)、1500人の人々が見守る中、国定忠治は大戸の刑場で磔にされた。この罪人が処刑されて安堵した者はいなかったに違いない。皆悲しみ、無念さを抱えていた。処刑された瞬間、大きな慟哭がその場を支配し、泣き崩れる姿があちこちに見られたことだろう。

 反骨を貫いた博徒国定忠治は、沢山の映画や舞台になり、有名な俳優が演じ続ける国民的ヒーローである。二十歳で佐波郡周辺を縄張りとする賭博集団「国定一家」を旗揚げした。殺人、関所破りを犯し、お尋ね者になった。権力側からみると大悪人である。しかし天保の大飢饉の時に、私財を投げ打ち、日本中で餓死者があふれる中、人々を救った。また灌漑用の磯沼の浚渫を行い、農民救済に励んだ。

 大戸の関所破りは、信州で殺された義弟の仇を討つためだった。関所は外観が一部復元されている。前に立って忠治の心中を想像した。「博徒である自分に関所越えの許可など下りるはずがない。関所破りは死刑だ。しかし義弟の仇を討たねば男が廃る。ならば世法より義理人情を取ろう」。だが心の葛藤はあったらしい。近くの松の下で、関所破りをするかどうか逡巡したという。

 処刑場所には忠治地蔵が建てられている。今なお参拝する人がいるのだろう。線香の煙が立ち込めていた。私も隣接する店で線香を買い求め、供えて冥福を祈った。磔になるまで実に16年間も逃げ延びた。捕まったのは脳溢血で倒れ、療養中の時だった。緻密な捜査手法のない時代とはいえ、対立する博徒や遺恨を持つ人間は相当いたであろうに。

居場所を届け出る者はいなかったのだろう。密告などすれば自分の身が危ない。それだけ恐れられ、人々に守られていたとも言える。市井の人々は大恩人と慕ったのだろう。「弱きを助け悪政は許さず、義理人情に厚い」という人物像は後世に脚色されたものだが、当を得たものかも知れない。
 
連載「上州をゆく」37 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
上田城(長野県上田市)
▲上田城(長野県上田市)
周辺MAP
沼田城の石垣(沼田市)
▲沼田城の石垣(沼田市)
周辺MAP

 今は女性の間で歴史がブームで、歴史に詳しい女性を「歴女」というそうである。特に戦国武将は注目の的で、六文銭の旗を掲げた真田氏も中々の人気だそうだ。真田氏は信州上田の小豪族に過ぎなかったが、武田信玄についた幸隆の卓越した諜報戦で、信濃の猛将村上義清を攻略し、勢力を伸ばした。

 信州という土地柄、ゲリラ戦が得意でスパイを駆使した。弱小軍団が巨大な敵に挑むための知恵から生まれた、こうした戦法が「真田の兵法」である。真田のスパイ群像は沢山の物語になった。私も子供の頃、猿飛佐助や霧隠才蔵など、真田十勇士に夢中だった。上田城址を訪れた時は雨だった。しかし忍者が空想を駆け巡り、心が躍った。

 沼田城も真田ゆかりの城である。1532年頃、沼田顕泰(あきやす)が築城した。沼田は関東と信州、越後を結ぶ要衝で、上杉、武田、北条といった戦国大名により、激しい争奪戦が繰り広げられた。戦いを制したのは武田方、真田昌幸だった。沼田を征服すると、長男信幸が沼田城主となり城を整備した。1597年に五層の天守も完成した。

 1681年、5代目真田信利は江戸・両国橋の架け替えを命じられたが、台風と重税に苦しむ領民の反発で材木の納入が遅れ、期日に間に合わなかった。それが幕府の逆鱗に触れ、領地没収、改易となった。翌年、城は天守もろとも壊された。名城と謳われただけに、今あれば群馬の象徴になっていただろう。

 徳川家康は真田との戦いで、何度も屈辱にまみれた。上田城攻めでは、圧倒的な戦力を誇ったが、昌幸の智謀に敗れた。大阪冬の陣でも、幸村率いる真田軍の奇襲戦法に辛酸をなめた。真田の旗印、六文銭は三途の川の渡し賃である。決死の覚悟で敵に立ち向かった。劣勢でも知略を巡らし強敵を苦しめる。この痛快劇が人々の心を捉えるのだろう。公園となった沼田城址を歩き、石垣を見ながら真田の盛衰に思いをはせた。

 

連載「上州をゆく」35 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
旧大岩学校(中之条町)
▲旧大岩学校(中之条町)
周辺MAP
若山牧水像(中之条町)
▲若山牧水像(中之条町)
中之条町観光協会

 沢渡温泉は昔から、草津の上がり湯として知られる。強酸性の草津温泉で荒れた肌を戻す、「なおし湯」「仕上げの湯」と言われる。熱くて肌に突き刺すような草津と違い、柔らかな透明な湯で、肌に優しいのでそう言われる。源頼朝、木曽義仲などがこの湯で疲れを癒したと伝えられている。

 ここは若山牧水が来遊したことでも知られる。1922年10月、軽井沢から水上を目指した牧水は、花敷温泉に一泊し、沢渡温泉へ向かう。途中暮坂峠で「枯野の旅」を詠んだ。
「長かりしけふの山路 楽しかりしけふの山路」(一部を抜粋)
歩いて峠に差し掛かったのだろう。紅葉の盛んな頃である。景色の美しさに旅の疲れも忘れ、感動したに違いない。それを「楽しかりし」と表現したのだろうか。現在峠には、マントを羽織った牧水の像と歌の碑がある。

 沢渡温泉を目指し、峠を下ると旧大岩学校の校舎に出逢う。明治から昭和にかけて小学校として使われた。記念館になった、県内の昔の学校を何件か見ているが、みな近代的で瀟洒な校舎だった。茅葺屋根は初めてだ。ここでも牧水は歌を残した。
「人過ぐと 生徒等はみな 走せ寄りて垣よりぞ見る」(同)
人が来ると珍しそうに覗きに集まる、人懐っこい子供の姿が浮かぶ。私が小学校の頃、学校にたまに人が訪ねてくると、みな見物に窓際に集まったものである。子供の好奇心のなせる業だろう。人と人との繋がりが濃かった時代の光景である。

 沢渡温泉は十軒ほどの宿が立ち並ぶ静かな温泉である。時折、杖をついた高齢者とすれ違う。温泉治療で有名な病院があるので、そこの患者だろう。リハビリテーションに励んでいるのだろうか。私の母親は田舎で一人暮らしである。介護の心配が頭をよぎる。自分の老後も心配だ。今の日本は介護が大きな社会問題となっている。安心して老後を迎えられる国にして欲しい。新政権に切に願わずにはいられない。

 
連載「上州をゆく」35 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
安中原市の杉並木(安中市)
▲安中原市の杉並木(安中市)
安中市HP
武家屋敷(安中市)
▲武家屋敷(安中市)
安中市HP

安中原市の杉並木は江戸時代初期に、中山道を整備する際に植樹された。冬は風よけ、夏は日陰になるようにとの、地元の人々の心遣いである。かつては1㌔ほどもあり、旅人の憩いの場となっていた。しかし時代が下るにつれ、立ち枯れ、風雨による倒木などで減っていった。今では十数本ほどしか残っていない。

バイパスが出来、中山道は旧道となった。しかし車社会の群馬ゆえ、車がひっきりなしに行き来する。車を降り、並木を見上げた。相当な高さである。一番高いものは40㍍以上だという。400年の歳月とは小さなものではない。かつて杉並木としては、日本最大を誇っていた。現在は新たな植樹が進み、並木の様相は保っている。

このあたりは、安政遠足マラソンの見学スポットになっていて、並木横のタンクにもマラソンの絵が描かれていた。元々は安中藩主板倉勝明(かつあきら)が、家臣鍛錬のために始めた。勝明は先取の気性に溢れた殿様だった。西洋軍制を採用し軍隊の近代化を図った。種痘を先駆けて実施し、また漆産業を興して窮民救済に励んだ。さらに新島襄の天賦の才能を見出し、勉学の後押しをした。先見性に勝れた名君であった。

次の藩主板倉勝殷(かつまさ)も新島に期待し、箱館遊学の援助をした。 そして西洋に憧れていた新島のアメリカへの密航を黙認した。当時、密航は重罪に値した。  ましてや板倉氏は幕府直結の譜代大名である。どんな刑罰があるか分からない。しかし保身ではなく、混迷深める日本の将来を考えたのだ。

安中藩は石高わずか3万石、家臣団300人ほどの田舎の小藩にすぎなかった。城は取り壊されたが、武家屋敷などが一部復元され残っている。武家屋敷は茅葺の長屋で、裕福とは言えない藩士の質素な生活ぶりがうかがえる。貧しい小さな藩であったが、近代日本の礎となり、日本の発展に貢献した安中藩の功績は決して小さくはない。

 
連載「上州をゆく」34 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
国魂神社(玉村町)
▲国魂神社(玉村町)
周辺MAP
玉村小学校(玉村町)
▲玉村小学校(玉村町)

8月は終戦の月。戦争を知る人が少なくなっているだけに、その記憶を留める努力が一層必要だろう。昔のことは美化されやすい。戦争の記憶も例外ではない。戦争を正当化する人々がいる。軍国主義者に尊敬の念すら抱く人もいる。そのような考えを許してはならない。憎しみと争いでは何も解決しない。それを人類の共通認識にしなければならない。

 玉村町の玉村八幡宮にある国魂神社は、玉村小学校にあった奉安殿を移築したものである。奉安殿とは戦前の学校にあった、天皇皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めた建物のこと。四大節(紀元節、天長節、新年、明治節)の式典の際に、職員生徒全員で御真影に最敬礼をし、教育勅語が奉読された。普段でも登下校時や前を通る時は、敬礼が要求された。

雨上がりの昼下がりに訪ねた八幡宮の境内では、様々なセミの声が交錯し、夏の到来を感じさせる。しかし今年は梅雨が長引いた地方が多い。しかも激しい雨が降る。連日報道される豪雨被害に心が痛む。眩しい太陽に照らされる、暑い夏が待ち遠しい。終戦の日も暑い日だったというが、どんな様子だったのだろうか。

 戦後、GHQの神道指令(国家神道の廃止命令)により、多くの奉安殿は解体された。神社は今では戦争の記憶を留める貴重な遺産である。現在は戦没者慰霊の神社となっている。玉村小では友好の印として戦前、アメリカから全国の小学校に贈られた青い目の人形「ルースちゃん」も健在である。戦争中、人形の焼却命令が出たので、これは奇跡と言える。

昭和10年前後から、奉安殿は積極的に建設された。アジア侵略が拡大した時期と重なる。以後、日本は破滅への道を突き進んだ。戦後、日本は幸い戦火に巻き込まれたことはない。平和思想が根付いていたからだろう。戦争の残酷さを知っている人々の努力の賜物である。その継承こそが、先人の恩に報いる道だと思う。
 
連載「上州をゆく」33 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
赤城山(高崎市から)
▲赤城山(高崎市から)
赤城神社(沼田市)
▲赤城神社(沼田市)
周辺MAP
 縄文の昔から赤城山麓の広葉樹林帯には、狩猟採集民が住み、山は信仰の対象だった。
家から見える赤城山は、裾野が遥かに広がり、まさに大地の守り神のような感じがする。昔の人々が畏敬の念を、山に抱いたとしても不思議ではない。県内には赤城山信仰に由来する、赤城神社が多数ある。県内に118、全国には300以上もの赤城神社があるといわれる。

老神温泉にある赤城神社は、開湯物語に由来する大蛇祭りで知られる。赤城山の大蛇の神が、日光の神に射られた矢を、地面に刺すとお湯が湧いた。その湯で傷をいやし、日光のムカデの神を追い払い、戦争に勝利した。神を追い払ったので、追神と呼ばれ、大蛇の神が年を取ると老神になった-これが老神温泉の開湯物語である。祭りでは、住民手作りの100mにも及ぶ大蛇が街を練り歩く。赤城山の名は、神が流した血で山が赤く染まったことから、アカキから転じたといわれる。

神社は崖にへばりつくようにあるので、道路脇から急な階段を上る。参拝しにくいのではないかと思った。しかし神社内の説明板によると、元は片品川沿いの断崖にあったが、不便なので当地に移したのだという。元の環境を再現するためここに設置したのだろうか。

赤城山信仰は、元々は、山に自然の恵みを感謝する原始宗教だった。建物などの施設はなく、祈る時は臨時の祭場を作っていたという。大和朝廷の支配が関東に及ぶと、赤城山信仰は神道と結びつき、結合の広がりとともに神社は増えていった。

江戸時代には、徳川家康の合祀により、各地の大名の信仰を集める。幕府庇護のもと、各地に分社が勧奨され、信仰は県外にも広がった。山は上州の風土形成にも寄与している。赤城おろしと呼ばれる空っ風は、群馬の代名詞となっている。しかし近年は弱くなったそうだ。もう一つの上州名物、かかあ天下のほうは、ますます盛んだと聞く。
 
連載「上州をゆく」32 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
常世神社(高崎市)
▲常世神社(高崎市)
鎌倉街道記念碑(高崎市)
▲鎌倉街道記念碑(高崎市)
周辺MAP
 「いざ鎌倉」。鎌倉時代の御家人が、幕府の一大事には、何をおいてもまっしぐらに駆けつける覚悟と忠義を表した言葉だ。観阿弥作の、能の傑作「鉢木(はちのき)」から生まれたと言われる。物語の舞台は、高崎の佐野とされている。

話は次のようなものである=一族の者に領地を奪われ、零落した佐野源左衛門常世は、大雪の日、旅の僧に一夜の宿を頼まれる。薪もないことから、大切にしていた梅、桜、松の盆栽を薪代わりにしてもてなす。「自分は落ちぶれているが、鎌倉武士である。いざ鎌倉の時は、真っ先に駆けつける」と僧に言う。しばらくして、時の最高権力者・最明寺入道(北条時頼)から召集がかかる。常世はみすぼらしい姿ながら一番に駆けつけた。拝謁したのは、あの旅の僧であった。時頼は僧の姿で諸国を巡っていたのだ。時頼はいたく感動し、奪われた領地を返し、加賀の梅田、越中の桜井、上野の松井田と梅、桜、松にちなんだ領地を与えた。

常世の居宅があったと伝えられる上佐野町の常世神社を訪ねた。住宅街の小さな神社である。境内に、覆扉に保護された常世の絵が飾られていた。盆栽の木を切る姿が描かれている。太い眉で武士らしい面構えだった。この絵とそんなに違わない顔だったのではと想像する。墓は栃木県佐野市あると説明板にあった。

常世が疾走したと思われる鎌倉街道は、高崎からは、藤岡を経て、所沢、藤沢を通り鎌倉に入る。必死の思いで馬を走らせ、駆けつけたに違いない。鎌倉街道とは、関東各地から鎌倉へ通じる道のことである。城南大橋の下に、鎌倉街道記念碑がある。

鎌倉時代には、蒙古が襲来し、内乱もあった。国情不安の中、この街道を決死の覚悟の武士たちが、頻繁に行きかったに違いない。しかし新田義貞の挙兵の際は、鎌倉攻略の進路となった。幕府守備のための道が、幕府攻撃の道になったのだから、歴史とは皮肉なものである。
 
連載「上州をゆく」31 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
与謝野晶子の歌碑(みなかみ町)
▲与謝野晶子の歌碑(みなかみ町)
利根川(みなかみ町)
▲利根川(みなかみ町)
周辺MAP
みなかみ町は2005年、水上町、月夜野町、新治村の3町村が合併して誕生した県内で一番広い町である。温泉の数も多く、まちづくり協会のサイトによると、水上、猿ヶ京、谷川、法師など18湯もある。いずれも県を代表する温泉だ。

与謝野鉄幹、西条八十など、多くの歌人もこの町を訪れている。町の中には歌人の歌碑が点在し、その思いに触れることが出来る。諏訪峡遊歩道にある笹笛橋の袂には、情熱の歌人与謝野晶子の歌碑がある。
「岩の群おごれど阻むちからなし 矢を射つつ行く若き利根川」
笹笛橋から利根川上流を望むと、雪の残る谷川岳を背景に、利根川が太陽に照らされ、川の碧色が輝いて見えた。激流が岩とぶつかるたび、白い水しぶきが上がる。利根川はまさに岩に矢を射て、突き進む若武者だった。

利根川は、新潟、群馬の県境にそびえる大水上山に源流があり、渡良瀬川、吾妻川、烏川など県内のほとんどの河川が合流し、関東平野を巡る約322㌔の大河である。日本の三大暴れ川の一つに数えられ、「坂東(関東)にある長男格の川」という意味で、坂東太郎と呼ばれる。ちなみに後の二つは、筑後川(筑紫次郎)、吉野川(四国三郎)である。

県内の田畑を潤す「母なる川」利根川だが、度重なる氾濫のため、その治水は昔から重要課題だった。特に1947年のカスリーン台風では、大洪水のため関東に大被害をもたらした。以後、支流を含め大規模なダム建設が行われ、現在では、首都圏の水と電力の需要を支える、文字通りの大動脈となっている。

みなかみ町は、今(ゴールデンウィーク)が春真っ盛り。利根川沿いの八重桜が咲き誇り、鮮やかなピンク色が眩しい。若者がボートで川下りを楽しんでいた。与謝野晶子は度々この町に来ている。利根川の流れに、岩をも砕く力強さと、大地を育む母の慈悲を見て、それに我が身を重ねたからかも知れない。
 
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連載「上州をゆく」30 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
ノコギリ屋根(桐生市)
▲ノコギリ屋根(桐生市)
旧金谷レース(桐生市)
▲旧金谷レース(桐生市)
周辺MAP
 桐生のノコギリ屋根の織物工場は、明治から昭和中期までに数多く建てられた。この屋根は19世紀、英国の紡績工場で採用されだしたと言われる。北側の天窓から差す柔かい光が作業に適し、機械の騒音を拡散出来るので、織物業には好都合だった。現在でも、市内には260棟ほどが残っているという。

旧金谷レースのノコギリ屋根の建物は、現存する唯一のレンガ造りのものである。1919年に建設された。当初は8連の屋根だったが、北側に新工場を造ったので、4連になっている。今はベーカリーになっており、音楽を聞きながら作りたてのパンが食べられる。天井が高く、天窓から光が優しく差しこみ、ゆったりした時間を過ごせる空間になっている。

時折観光客も来るのだろう。建物を写真に収める人の姿も見られた。リンゴ入りのパンとコーヒーを頼んだ。美味しそうな香りに食欲をそそられた。ふわっとした食感と、ほのかな甘さがいい。読書をしている人がいた。市民の憩いの場として定着しているのだろう。

桐生は古代から織物業が盛んだった。奈良時代には、絹が朝廷に献上されていた。応仁の乱の影響で一時衰退するが、江戸時代に復活する。技術革新を怠らず、常に日本の最先端を行き、京の西陣と並び称された。昭和40年代に入ると、建築技術や電機設備の進歩で、ノコギリ屋根の工場は減少していく。屋根の谷間で、雨漏りが生じやすかったのも原因らしい。織物産業が衰退した今は、アトリエ、資料館、幼稚園など様々な用途に利用されている。

桐生天満宮から本町通りを下った。古い建物があちこちに残り、桐生らしさを醸し出している。シャッターの下りている店舗が目立つのが寂しい。途中、外国人の小学生と出会った。間もなくすると、お母さんが車で迎えに来た。嬉しそうに車に乗り込み帰って行った。この笑顔を消さないようにするのが、日本人の責任ではないかと感じた。
 
連載「上州をゆく」29 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
上信電鉄を走る電車(下仁田駅)
▲上信電鉄を走る電車
(下仁田駅)
上野鉄道時代の倉庫(下仁田町)
▲上野鉄道時代の倉庫
(下仁田町)
周辺MAP
 上信電鉄は1897年、上野鉄道として、高崎~上州福島間に開通した。繭や生糸を運搬するために敷設された私鉄である。そのため、株主563人中327人が養蚕農家だったという。同年に下仁田まで延伸し、中小坂鉄山の鉄なども運搬された。1921年には上信電気鉄道となった。上野国(群馬)と信濃国(長野)を結ぶ構想で名付けられたが、結局実現していない。

自動車の普及と過疎のため乗客が減り、今日本中のローカル線は経営が苦しい。上信も例外ではない。私の田舎では、鉄道がどんどん合理化・縮小され、ローカル線はほとんどなくなってしまった。そのためか過疎が一層進み、地域は寂れる一方である。そうならないように切に願う。

高崎から下仁田まで1時間余り。進むにつれ、遠くに見えていた山々がだんだん近づき、終点近くなると間近に望めるようになる。下仁田駅前には、上野鉄道時代の倉庫が残っている。赤煉瓦の倉庫が一般住宅と並んでいた。囲むように木造倉庫があり、古びた看板が掛かっていた。人の匂いが残っている。駅構内には貨物車両や古い客車もあったが、もう使われていないのだろう。錆びついていた。「老兵は消え去るのみ」か。 

下仁田はネギで有名である。我が家の鍋料理に下仁田ネギは必需品である。私が海の町の出なので、シャケ、タラ、ホタテなど海産物は欠かせない。甘味のあるネギが潤滑油となり、海の幸の味わい深さを引き立てる。また私が行きつけの、東京の仏料理レストランでは、食材にこだわりを持つシェフが、下仁田ネギで特製スープを作る。

下り電車が千平駅を出て間もなくすると、右側に小さな橋が見える。鬼ケ沢橋梁と言い、昔の線路の名残だ。鉄道が電化される際、当時の施設はほとんどが消えたそうだが、これは約110年前の創建時の姿で残っているそうだ。町の重要文化財にも指定されているので、注意して見ていただきたい。
 
連載「上州をゆく」28 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
戦艦ミズーリ(ハワイ・オアフ島)
▲戦艦ミズーリ
(ハワイ・オアフ島)
中島邸(太田市尾島町押切)
▲中島邸(太田市尾島町押切)
周辺MAP
太田市HP・中島知久平邸

 1945年9月2日、東京湾に入った戦艦ミズーリで、降伏文書調印式が行われた。日本側は重光葵(まもる)全権、連合国側はマッカーサー元帥が調印し、日本は新たな道を歩むことになった。アメリカでは、この日を終戦の日としている。ミズーリは現在、真珠湾に係留されており、一般に開放されている。巨大な大砲を何門も擁し、アメリカの力を誇示しているようだった。ミズーリは湾岸戦争に出撃した後、退役している。

戦後、中島飛行機の技術者達は、リヤカー、乳母車などを作り、糊口をしのいでいた。しかし中島飛行機が富士重工として再出発すると、技術者達は輝きを取り戻す。ラビットスクーターのヒットがあり、会社も復活の道を歩み始めた。1958年には、日本を代表する国民車「スバル360」を生み出し、モータリゼーション時代の幕を開けた。この車は戦後復興の象徴となった。それまで高嶺の花だったマイカーが、庶民の手の届くものになった。昭和の人々に夢を与え、車社会の到来を実感させた。

太田市郊外の利根川近くに、中島邸が残っている。少年の頃家出した知久平が、出世した後、両親のために建てたものだという。くすんだ肌色の壁が広い敷地を囲んでいる。中は木々が茂っていて見えない。他にも中島飛行機ゆかりのものはないかと探したが、見つからなかった。

高崎市の群馬の森にある、歴史博物館にスバル360が展示されている。なだらかな曲線の白い車体に、かつて世界一の飛行機を造った、最高の技術が凝縮されている。飛行機と同じ情熱を、技術者達はこの小型車に注いだ。今度はこの小さな車に、日本人の希望を乗せようとしたのだ。

軍需産業の中心地から、自動車や電機を中心にした、平和産業の大拠点となった東毛地区。日本経済をけん引し続けている。東毛は、北関東一の工業地帯であるが、その礎となったのは、中島飛行機であったことは言うまでもない。
 
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連載「上州をゆく」27 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
アリゾナ記念館(ハワイ・オアフ島)
▲アリゾナ記念館
(ハワイ・オアフ島)
富士重工(太田市)
▲富士重工(太田市)
周辺MAP

 常夏の島、ハワイは11月下旬でも暑い。照りつける太陽の下、様々な人種の人々が行き交う。日本人が多い。毎日3千人の日本人観光客が押し寄せるそうだ。真珠湾を訪れた日は、澄み切った青空が広がっていた。自然と心が弾む。ここは昔、真珠の養殖をしていたのでそう呼ばれる。

真珠湾に浮かぶアリゾナ記念館は、真珠湾攻撃で撃沈された、戦艦アリゾナの上に造られた「鎮魂碑」である。白い長方形の建物の中には慰霊堂があり、銘板に犠牲者の名前が書かれていた。その数1177人。前でじっとたたずむ車いすの老人がいた。友の慰霊に訪れた元兵士だろうか。70年近くたった今も傷は残る。海底に眠るアリゾナからは、油がわずかずつ漏れ、今も浮かんでくるという。犠牲者の涙と、アメリカ人は言うそうだ。

南部忠一中将率いる、ゼロ戦部隊約350機が、奇襲をかけたのは1941年12月7日(アメリカ時間)。容赦ない攻撃が真珠湾を襲った。兵士はなすすべもなく逃げ惑う。抵抗もかなわず、多数の兵士が海の藻屑と化した。日本軍はアリゾナ、オクラホマなど、21隻の軍艦を撃沈。2390人の米兵が死んだ。
奇襲部隊の主力である中島飛行機のゼロ戦は、大空に夢を懸けた中島知久平の下に集った、若き技術者の苦闘の結晶だった。1917年、従業員9人で、尾島(現太田市)の養蚕小屋から出発した、研究所がその原点である。技術者達は、大空に羽ばたく夢を持ち研究を重ねた。失敗ばかりで、「お米は上がる。なんでもあがる。あがらないぞい中島飛行機」と揶揄された。世界一の飛行機を造るという、執念と夢だけが彼らを支えた。

戦後、技術者達は、自分達の造った飛行機で多くの人命が失われたことを悔いたという。しかし彼らに責任はない。戦争を遂行した非道な権力にこそ責任がある。中島飛行機は、最盛期には20万人の社員がいたが、終戦と共に消滅した。
<次回に続く>
 
連載「上州をゆく」26 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
土蔵造りの家(渋川市)
▲土蔵造りの家(渋川市)
白井宿を流れる水路(渋川市)
▲白井宿を流れる水路(渋川市)
周辺MAP
(地図は白井宿ふるさと物産館)
 白井宿は、元は石高2万石の白井藩白井城の城下町だった。しかし本多紀貞が城主の時、跡継ぎがないまま死去すると、1624年に白井城は廃城となった。その後白井宿は、渋川、沼田や前橋などを結ぶ交通の要衝という地の利を生かし、市場町として栄えた。

当時開かれた市は、「六斎市」と呼ばれた。麻、繭、材木、米、麦など上州の特産物を商い、かなりの賑わいだったという。しかし幕末、明治と3度の大火に見舞われ、町並みは失われた。当時、立ち並んでいた土蔵造りの家は、現在ではわずか2軒にすぎない。

集落を貫く道の中央を、水路(白井堰)が通っている。江戸時代に、雨水の排水溝として造られたものだという。現在は堰の両脇に桜の木が植えられ、桜の名所の一つになっている。20分もあれば歩き切ってしまう小さな町並みだが、古代から歴史を刻む。昔の群馬郡の郡庁があり、伊勢神宮の御厨(みくりや)地でもあった。町の外れに、高いキンモクセイの木があった。無数の橙色の花をつけ、強い香りを放っていた。町の変遷を、一番よく知っているに違いない。

白井は昔から紀行文などに登場している。室町時代の僧・歌人尭恵(ぎょうえ)、万里集九(ばんりしゅうく)などが町の様子を書いている。集九は「梅花無尽蔵」の中で、白井を「京洛のごとし」と書いた。多くの文人墨客が、ここに魅かれ、旅人として訪れた。しかし明治になり、国道17号が開通すると、しだいに寂れていった。

白井宿を見学した後、隣接する「道の駅こもち」に立ち寄った。お城風の建物が印象的だ。広場では、ドライブ中の若いカップル、家族連れなど様々な人達が休んでいた。大変な人出である。物産館に入ったが、身動きが取れないほどだ。人ごみが苦手な私は少し戸惑った。往時の白井宿の市も、このような賑わいだったのだろうか。瓢箪の置物が目に付いた。民芸品だろうか。面白そうなので、買い求め、家路に就いた。
 
連載「上州をゆく」25 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
浄法寺(藤岡市)
▲浄法寺(藤岡市)
伝教大師像(藤岡市)
▲伝教大師像(藤岡市)
周辺MAP
 藤岡市の浄法寺は、奈良時代初期の創建である。奈良の唐招提寺を開いた中国の高僧鑑真の弟子、道忠が建立したと言われる。平安時代になると、比叡山延暦寺の開祖、伝教大師最澄の発願によって相輪塔(仏塔)が建立され、関東地方の天台宗布教の拠点となった。室町時代には、関東管領を務めた上杉氏の帰依もあり、東国の中心寺院として栄えた。

藤岡の市街から十国峠街道を南に下り、旧鬼石地区に入ると間もなく寺院が見える。大きくはないが威厳を感じさせる寺である。山門上の看板に「緑野教寺」とあった。この名は平安時代に嵯峨天皇の庇護を受け、緑野郡を与えられたことに由来する。当時は在地地主や武士団に対抗し、多数の僧兵(武装した僧侶)を抱え、相当な勢力を誇っていた。

境内には、伝教大師像が立っていた。見上げるような大きさだった。本堂の前に、「一隅を照らす」と刻まれた碑があった。これは最澄の言葉である。一生懸命自分がなすべきことをなし、人々や社会に貢献する生き方のことである。地道に精進することの大切さを教えているのだろう。現代にも無数の「一隅を照らす人」がいる。こうした人々の、見えない日々の苦闘により、我々の生活は支えられている。

戦国時代、関東の有力豪族北条氏と上杉氏との戦いで、浄法寺は上杉氏についた。1552年、北条氏の焼き討ちに遭い、寺は焼失、領地は没収された。しかし当時の住職舜祐らの努力により、1556年に再興される。その後、徳川家康から領地も与えられた。

伝教大師が相輪塔を建てたのは、全国でわずか6カ所。建立者が鑑真の直弟子であることから、当時は相当位の高い寺院だったのかも知れない。地方の小さな寺院の、意外な波乱万丈の歴史を知り、驚いた。宗教の歴史は、権力との関係を抜きにしては語れない。浄法寺のたどった歩みも、権力に翻弄された宗教の歴史と言えるかも知れない。
 
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連載「上州をゆく」24 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
鎌原観音堂(嬬恋村)
▲鎌原観音堂(嬬恋村)
周辺MAP
鬼押出しの奇岩(嬬恋村)
▲鬼押出しの奇岩(嬬恋村)
周辺MAP
 太古から噴火を繰り返す浅間山。その爆発の凄まじさを、まざまざと見せつけるのが鬼押出しである。無造作に転がっている奇岩群は、1783年の天明の大噴火の際に、吐き出された溶岩が固まったもの。幅3㌔、長さ12㌔に及ぶ。爆発の恐ろしさを、当時の人々が「火口で鬼が暴れ、岩を押し出した」と表現したのが名の由来という。

観光バスに長野・軽井沢駅から乗り、鬼押出し周辺を巡った。別荘地らしく、白樺の木々が茂る中をバスは走った。こんな静かな環境に、別荘を持てる人が羨ましい。嬬恋村に入ると、キャベツ畑も広がった。鬼押出しに着き散策した。岩の塊は、日本が火山列島であることを認識させる。黒い岩のザラザラした感触に、地球の怒りを感じた。今は周りに草木が茂り、怒りは隠されている。しかしいつまた怒り出すか誰も分からない。

溶岩流は北側斜面を走り鎌原村を襲った。多くの村人が呑まれた。477人もが犠牲となった。高台の観音堂にたどり着き、助かったのは僅か93人。そばの売店に堂の石段下から発掘された、2人の女性犠牲者の顔の復元写真があった。無念さを思う。地元の人が観光客に茶を振舞っていた。悲劇を風化させないよう、観音堂を守っている人々だという。

大火砕流の凄まじい流れは、吾妻川に達し、利根川に流れ込んだ。泥流にまみれ、焼けただれた多くの死体、家屋の残骸などが、川一面を覆い尽くした。被害は周辺の55の村に及び、死者は1600人余りに達したという。

現在、観音堂の石段は15段。しかし1979年の発掘調査では、全部で50段だった。溶岩で約7㍍が埋まっている。堂の境内は驚くほど狭い。しかし悲しみを乗り越え、長い復興の歴史はここから始まった。被災前の人口に戻ったのは大正時代だという。「天災は忘れた頃にやって来る」(寺田寅彦)。悲劇を決して忘れてはならない。 
 
連載「上州をゆく」23 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
多胡碑の覆堂(吉井町)
▲多胡碑の覆堂(吉井町)
碑がある「いしぶみの里公園」(吉井町)
▲碑がある「いしぶみの里公園」
(吉井町)
周辺MAP
 多胡碑は711年に、上野国(かみつけのくに)に、14番目の郡である「多胡郡」を設置することを記念した碑である。片岡郡(高崎・榛名・安中)、緑野(みどの)郡(藤岡・鬼石・新町)、甘良郡(富岡・甘楽・吉井)の3郡から、6郷(集落)の300戸を分割し、それを多胡郡とした。戸とは家ではなく、一族のこと。1戸当たり20人位とされるので、人口約6千人の新しい郡が誕生したことになる。

少し赤みかかった石に刻まれた漢字は損傷も少なく、1300年前のものとは思えない。書かれている人名に注目した。「右太臣正二位藤原尊(みこと)」とは、藤原不比等のこと。大化の改新の立役者の中臣(藤原)鎌足の子で、平安時代に全盛を誇った藤原氏の実質的な祖である。その人物が多胡郡設置の責任者として、碑に名を残す。

710年に平城京が出来、大和政権は新体制になった。地方の支配体制も改正しようという動きはあっただろう。さらに当時、朝鮮半島は戦火に覆われ、大陸から多数の人々が日本に逃れて来た。西毛地域には、特に多く移住し、人口は増加した。これらが分割の要因だろうか。多胡とは「胡人(西方の人)が多い」という意味。多胡郡とは、外国人が多い郡ということ。しかし多胡の意味については、他にも諸説あるという。

碑を見学した後、近くの物産センターに立ち寄った。桃、キュウリ、スイカなど地元産の作物がたくさん並んでいた。実りの恵みに感謝した。夏の太陽が照りつける。今年も暑い。地球温暖化の影響が世界中に出ている。局地豪雨や大型台風も最近多い。異常気象は温暖化の影響とも言われる。これからも無事に、実りの恵みの恩恵にあずかれるのだろうか。ちなみに、多胡郡は1896年、緑野郡・南甘楽郡と合併して、多野郡となった。
 
連載「上州をゆく」22 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
旧花輪小学校(みどり市)
▲旧花輪小学校(みどり市)
花輪駅のウサギとカメの像
▲花輪駅のウサギとカメの像
(みどり市)
周辺MAP
 足尾銅山からの物資輸送のため、敷設されたのが足尾鉄道である。銅山は閉山したが、現在は「わたらせ渓谷鉄道」に生まれ変わり、渡良瀬渓谷の観光や周辺住民の貴重な足となっている。渡良瀬川沿いに走っているので、渓谷の景観を楽しむのには絶好の路線である。列車から見る川はゆっくり流れ、優しささえ感じさせる。

花輪駅そばに、廃校になった花輪小学校が記念館として保存されている。木造校舎で、自分が学んだ学校のような錯覚を覚えた。誰でもが懐かしさを感じ、同じ感覚を持つだろう。教室には教科書や学用品が展示されていた。使い古された教材に名前が書いてあった。この人は、どんな大人になっているだろう、などと考えた。

「うさぎとかめ」「金太郎」「花咲じじい」など、誰でもが口ずさんだ童謡を数多く作詞し、「童謡の父」と言われる石原和三郎は、勢多郡東村(現みどり市)に生まれ、この小学校を卒業した。教員になってからは、母校の校長も経験している。児童を叱るとき、石原先生は涙を流した。その涙に心から改心した人も多い。

明治の初め頃は、子供向けの歌が少なかった。子供のためには、子供と同じ目線で歌える歌が必要と、童謡の作詞を始めた。56年の生涯で、作詞した童謡は100曲以上に及ぶ。「上野唱歌」(1900年に作詞)は「晴れたる空に舞う鶴の」で始まる。群馬を「舞う鶴」に譬えたのは和三郎だと言われる。

高崎の佐野小など、県内小学校の校歌も作った。作詞を頼まれれば快く応じた。消防団や会社の歌も作った。しかし軍歌は作らなかった。子供を戦争の犠牲にしてはならないとの思いからだ。日清、日露戦争に勝ち、富国強兵を推し進めた時代に、戦争の愚かさを見抜いていた。花輪駅の駅舎にツバメの巣があった。ヒナが2羽いた。私の目の前を、餌を探しに行く親鳥が凄い速さで横切った。子育てに命を懸ける姿が、和三郎とだぶった。
 
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連載「上州をゆく」21 ペンネーム 国定忠治(高崎在住)
広瀬川の流れ(前橋市)
▲広瀬川の流れ(前橋市)
新前橋駅(前橋市)
▲新前橋駅(前橋市)
周辺MAP
 萩原朔太郎が散策した広瀬川沿いを歩いてみた。朔太郎の他に、伊藤信吉、東宮七男など前橋にゆかりのある詩人の詩碑が並ぶ。深緑色の川は意外に深そうで、静かな流れだった。

「広瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん」(広瀬川)

落第を繰り返し、大学受験にも失敗した。人々の白眼視に耐えられず、故郷は息苦しい場所だった。しかし時が経てば、自分も周囲の存在もなくなる。所詮人生など泡沫(うたかた)のようなものと、広瀬川べりを歩いて思ったのだろうか。鬱屈した青春時代だった。

「野に新しき停車場は建てられたり
便所の扉風にふかれ
ペンキの匂ひ草いきれの中に強しや」(新前橋駅)

新前橋駅が出来たのは1921年。現在は大きな三角屋根の近代的な駅だ。朔太郎が「荒寥たる田舎の小駅」と詠んだ面影はどこにもない。駅の西側に通じる高架橋の上から周囲を眺めた。沢山の線路が駅構内を走る。四方の町並みはどこまでも続く。周囲に「野」などない。しかし遠くに見える山並みは当時と変わらないに違いない。
朔太郎は40歳で上京した。故郷を嫌悪していたというが、「郷土望景詩」など故郷を詠んだ詩は多い。誰でも古里は忘れがたいものなのだ。

「火焔(ほのお)は平野を明るくせり
まだ上州の山は見えずや」(帰郷)

蒸気機関車が古里に近づき、はやる気持ちを故郷の山に託して詠った。山は心を癒す故郷の思い出の象徴である。私も都会の駅から十数時間も夜汽車に揺られ、明け方、古里の潮風の匂いを感じると、同じ思いを味わったものである。
 
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